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もういちど、ダンスを踊って (一)

もういちど、ダンスを踊って (一) 暮らし

 内気で社交的ではないぼくにも、人生でいちどだけ女性とダンスを踊った経験がある。それはぼくが 社会人となって2年目の夏のことで、ぼくは24歳になったばかりだった。
 ぼくは大学を卒業して、地元の自動車販売会社に勤めていた。高級車を扱うショールームに配属され、新車販売のセールスにようやく慣れはじめたころだった。   

 自動車のディーラーマンに憧れたわけではなかったが、大学を卒業したら何かしらの「営業」と名のつく仕事に就こうと考えていた。ぼくは幼いころから人付き合いが苦手な子供だったからだ。
その性質は小学校、中学校、高等学校、そして大学に入学してからもさして変わらなかったのだが、 ぼく自身の「自分を変えたい」という強い思いは変わらなかった。そこで必然的に人と関わらざるを得ない仕事をしようと決めたのだった。そうした理由ではじめた就職活動の中で、たまたま内定をもらったのが、自動車ディーラーだったのだ。
 就職氷河期と呼ばれる時期だったが、新卒で職にありつけたことは幸運だった。ぼく自身が楽観的に考えていたよりも、それははるかに険しい道のりだったけれど。   

 仕事はハードだったが、ぼく自身が望んで就いた職業だったこともあり、その生活は充実したものだったと思い込もうとしていた。休みもなく学生時代の友人や彼女と会う機会も次第に減っていった。「自分を変えたい」という思いは、ぼくの「人見知りを克服して営業としてはやく一 人前になりたい」「1台でも多くの新車を販売し、成績を上げたい」という思いに組み替えられていったのだ。
 もともとまわりの人との交流に不安があり、「自分を変えたい」と思っていたぼくの心の奥底には、「他者をコントロールしたい」という願望があったということに気づくのは、それからずいぶんあとになってからのことだった。
 朝早く起きて会社へ行き、夜は日付が変わるまで仕事をして帰宅する。平日も休日も関係なく続く毎日に、ぼくは本当は疲れきっていた。 

 ふたりに出会ったのは、そんな頃のことだった。

 ある日ぼくは上司からひとつの提案を受けることになる。その提案がきっかけで、ぼくの24歳の夏は忘れがたい季節となったのだ。

 上司の提案とは「営業としての話術を磨くためには恋愛が最も適当であり、仕事のほかで多くの女性との経験を積むことが必要だ」というものだった。 それがぼくの上司の信条であり、また上司自身もその信条に基づいた行動と錬磨によって、これまでの実績を積み上げてきたと いうのだ。そして鍛錬の初手として、ぼくに上司主催の合コンに参加しろというのだった。
 直属の教育係でもある上司はぼくに対して、「俺のようになれ」と 言っているのだ。そし て「成績の向上」を第一に考えて行動しているぼく自身にとってもその提案は、決して受け入れがたいものではなかったのだった。   
 なぜなら、その頃ぼくはある一面では上司に心酔していたからだ。上司はぼくが 所属するチームのリーダーであり、店舗にとどまらず社内における第一のセールスマンだった。
 月間平均で10台以上の新車を受注し、新型車発表の際には30台以上の登録をこなした。年間では150台もの新車販売を達成して、その売り上げは10億円あまりに上る。
上司は自信家で、喋りもうまく、ぼくがかつて想像していた典型的な営業マンタイプ の人間だった。背は高くなく、大きな耳を持っていた。その背格好はどことなく「コメディアン」を彷彿とさせるファニーさがあった。
 それによって持ち前の押しの強さは和らぎ、彼と会話する人にはバランスの取れた印象を与えたようだ。 

  彼はいつもシルエットを大きく見せるため、大きめのバーバーリー・ブラックレーベル のスーツに身を包み、右手の手首にはトップセールスであることを示すロレックスのデイ トナが光っていた。
 髪型は短くセットされ、顎まで繋がるかと見える刈り上げられたもみあげの上には9999 の銀縁メガ ネの弦が知的な直線を描いて横断していた。   
 上司はとくに女性からの支持が厚く、社内外で人気があった。それは、法人を除く一般ユー ザーに対する商談にはとくに有利に働いた。
 ファミリー層であれば多くの場合には、家計を握っているのは妻であり、またそうでなくと も妻の承諾がなければ高額、ともすれば田舎では安い一軒家が建つほどの金額の買い物に踏み切ることなどとてもできないからだ。
 社内においてもその人気は盤石のもので、営業からフロアスタッフまで、彼のことを嫌うものはなかった。
 ただし、 浮気癖があり、妻子を持ちながら毎年入社してくる新人の女の子に手を出しては、同僚や上司を困らせていた。その点では、男性陣からはあまり良い目では見られていなかったようだ。
 特に上層部からは目をつけられていて、それがもとで成績に階級が比例せず、リーダー止まりになっているのだと、社内ではもっぱらの噂だった。
 それには、入社以来流してきた数々の浮名とそれに まつわる怨恨も関係しているようだった。
 しかし、面倒見の良い上司はぼくを含めた男性営業のルーキーたちや、女性スタッフたちには関わり合いのないことでもあったのだ。   
 そしてぼく自身も、事実上司を尊敬していた。上司の営業に対する姿勢や、身の回りの人 たちに対する気配りは見習うべきものがあったし、ぼく自身もいつしか上司のような「営業マ ン」を目指していたのだ。
 もちろん倫理の壁をこえて不倫に及ぶ当事者たちの心理状況については、 経験の少ないぼくには皆目わからなかったが、上司に魅力を感じる女性たちが多くいることは、 ぼくにも大いに理解できた。   

 だからぼくが 上司から体裁の良い言葉で合コンの誘いを受けたとき、ぼくの中にはその提案を 断る理由は見当たらなかったのだった。
 もちろんぼくはその時ちょうど、大学時代から四年間付き合っていた彼女にふられたばかりだったこともあって、積極的に女性と会話するような場所に出向くこ とについてはあまり気が進まなかったのだが、「仕事のため」「ぼくのため」という耳障りな言葉で自尊心をくすぐられると、すぐにネガティブな気持ちは薄らいでぼく自身で心の憶測へその気持ちを追いやってしまった。
 もちろん上司としては数合わせの人数として、または口が堅く みえるぼくを適当な人材として選び出したと いうことにすぎないのだろうということも感じていたのだが。
 しかしそれでぼくは、「自分を変えるため」の練習として合コンへ出かけていくのだ というポジティブな気持ちを刷り込まれてしまって、すっかりそのつもりになってしまったのだっ た。 

  梅雨が明けて暗くぶ厚い雲はどこかへ過ぎ去った。海開きも過ぎ、それまでの灰色の世界が嘘のように、日中は太陽の日差しも刺すような鋭さにかわりつつあった。
 ようやくあらわれた本当の夏の景色は、二十四歳のぼくの目には例年よりもまして鮮やかなものに見えた。
 朝のルーティンである、店舗外に陳列された中古車の洗車が終わるとすぐに色とりどりのボディーからは蒸発された水分が立ち上り、何層にも塗られた塗装の中に細かく散りばめられたラメがベース色の魅力を最大限に引き出した。
 水で濡れた路肩のアスファルト からは、どこから這い出したのかあちらこちらから名も知れぬ 草花が濃い緑色をしたその葉を力強く太陽に向かって伸ばしていた。
 ぼくは心苦しくはあったが、展示場周りのその生命たちを一本いっぽん引き抜いていった。草花はアスファルトの隙間に巧妙に、しっかりと根を張っていてなかなか引き抜けなかった。 引きちぎるようにあらかた始末し終えるとぼくは、まとめてゴミ箱へ捨ててラウンジを横切り二階の事務所へと上がっていった。

   朝礼が終わると、次は定例の長い会議がはじまる。各店舗の営業進捗を聞かされた後、個人の 進捗確認がある。
 ぼくは月初から運良くいくつかの受注をものにすることができていて、今月のノルマもなんと か達成できそうだったので、マネージャーの商談予定の濃淡に対する追及は比較的 軽く終えられた。
 しかし、目標台数にはまだ達しておらず、ホット客と呼ばれる見込みの弾数を頭の中で数えて会議を過ごしたが、途中からは今夜の予定のことを考えていた。
 緊張していたが、楽しみでもあった。その日ぼくは新たに買い求めた吊るしのスーツとボタンダウンシャツを 下ろし、ジャケットに差すチーフはお気に入りの白い絹のものにした。
 上司はその月のノルマを 達成していたが、あと二台という理不尽なノルマの上積みを要求されていた。上司は顔色を変え ることなく、ただ黙ってマネージャーの言葉に頷ずくのみだった。

  朝礼を終えて事務所で靴を磨いていると、上司がこちらに歩み寄り、言った。
「あと二台とは無理強いだなあ。予定を変えて得意先を訪問してくるから、納車引取を俺の代わりに行ってきてくれるか」
「わかりました」
ぼくの一日の予定はそれでおおよそ決まったようなもので、今日はもう商談のことは考えるまい と決めた。
 「スーツ汚すなよ」 そう上司は言い置き、ジャケットを背負うように翻して羽織ると、事務所から出ていった。

 ぼくが勤めていた店舗はぼくの地元の半島をエリアにしており、その南北に長い半島は南端まで向かえば高速でも往復一時間はかかる。店舗は半島の北端である都市部寄りの位置にあったが、特に上司は南の海浜地域の顧客が多かった。
ぼくは午前中は自身の顧客の点検対象の車を引取り、そして納車をして過ごし、午後からは上司の顧客の引き取り、納車をして過ごした。
  一件は半島の南端に住む顧客の車だった。
 海開きをしたこともあってか、高速道路を降りると いつもよりも県外ナンバーの車が多く、道には観光客が麦わら帽子をかぶってタンクトップや ショートパンツ姿で歩いていた。
 普段は侘しく閑散としているこの漁村も、夏は海水浴客で賑わった。海の香りが辺りに漂っていて、代車のラジオからはビーチボーイズが流れてきた。
 
 もう一件の行き先は牧場だった。
 ぼくは上司がさっき言った意味を理解した。駐車場と思しき場所で車を降りると、背丈ほどもある、伸び放題となった雑草が生い茂った砂利道を進んだ。奥まで進むと牛舎が見えてきた。ぼくはそこで主人に代車の鍵を渡し、愛車の鍵を受け取った。

 そのようにして、ぼくの一日はあっという間に過ぎていった。 

         つづく   

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