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もう一度、ダンスを踊って(三)

もう一度、ダンスを踊って(三) 暮らし

 次の日からぼくは、いつも通りの仕事漬けの日常に戻った。前夜のお礼をメールでふたり宛に送り、お互いにまた飲みましょうという社交辞令を交わしたのち、連絡はあたりまえのように途絶えていた。

 またそののちにぼくはたまたま、工場で壁にかけられた修理車のカルテの中から香織と同じ名前の記載がある書類を発見したのだった。香織は上司の得意先の娘で、香織も父から中古車を あてがわれていたようだ。
 その後も香織は何度かに車の用事で来店することがあったが、なんとなく仕事で会うのは気恥ずかしいのでぼくは会うことを避けていたのだ。

 ある日の午後ぼくはいつものように仕事をしていると、突然インカムで香織からぼくが呼ばれているとアナウンスがあった。
 女性スタッフの胡乱な視線に気まずい思いをしながら階下のラウンジに降りていくと、香織が仏頂面でひとり、ソファに座って待っていた。
 香織は上司に連絡を とり来店したようだが、どうやら上司は別の用事で香織に断らず外出してしまったらしい。上司はおそらくぼくをあてにして、香織には断もせずに重要な商談を優先したようだ。
 重要な顧客の用事以外は気にすることなくアポイントをすっぽかす態度は上司らしい 優先順位の付け方だった。
 気の弱いぼくにはとてもできないが、それがトップセールスたる所以なのだろうとぼくは思った。
 ぼくは香織に、上司が緊急の用事で外出してしまった旨と、何かの手違いで連絡が届いていなかったことを上司の代わりに詫びた。
 要件を代わりに伺うと伝えたが、依然眉に皺を寄せたまま、「河野はどこ?」とそれだけいった。

 「お客様が事故にあったようで、急いで出かけたようです。こちらの引き継ぎ不足で連絡ができておらず申し訳ありません」
そこまで言ったところで、香織はようやく表情をすこしだけゆるめて、「仕方ないわね」と言った。

 「誠に申し訳ありません」 

 香織が来店した理由は擦ってしまった車の修理だった。擦った箇所は幸い、フロントのバン パーの右端に少し引っ掻き傷がある程度だった。
 ぼくは車を預かり、タッチペンとコンパウンドで該当箇所を処理し、洗車して車を返却した。

「ありがとう」

 キーを受け取った香織はようやく いつもの表情に戻り、それから上司についてぼくに尋ねた。
「最近、河野の様子が変なの、冷たいような気がして」
 会社のラウンジで臆することなくそんなことを尋ねる態度を見て、ぼくは内心苦笑しながらも、 感じている気持ちを率直に表現することのできる香織を羨ましく思った。
 ぼくはそんな素振りは見えないと香織に伝え、それからしばらく愚痴に付き合った。
 香織は上司の心が離れていくことを心配しているのだ。
 上司はもちろん妻帯者であり、それは無論香織の方も承知しているはずなのだが、上司は依存心の強い香織の気配が増していくのを感じて少しずつ香織と距離を置き たがっているのだろうと考えた。
 ともすれば合コンに呼ばれた本来の意図は、上司の身代わりとなるためだったのかもしれない。そういうことに、鈍感なぼくは今更になって思い当たった。
 香織は不安を口にすることで少し落ち着いたのか、 「ねえ、良かったら今夜飲みに行かない?」 とぼくを誘った。
 ぼくは周りに呈茶の女性スタッフがいないことを確認してから、努めて明るい声を装って「いいですね」と答えた。
「じゃ、いつもの場所で、また着く時間を連絡して」
 そしてぼくは彼女を車までエスコートし、道路上から白いハッチバックの後ろ姿を見送った。

 その日上司は十九時ごろに帰社した。工場で煙草を吸っていたぼくは、Cセグメ ントのシルバーのセダンから降り立ち、TUMI のカバンを前後に揺らしながら戻ってきた上司に向かって「滝井様 が来店されましたよ」と叫んだ。
 しかし上司は曰くありげ な目をして手を上げて合図をしたのみだった。
 ぼくが 二十時ごろ事務処理のために事務所へ上がっていくと、先に席についていた上司がこちらを振り返り、ニヤリと笑って「滝井様の件、サンキューな」とそれだけ言った。
 ぼくは「さんざ ん愚痴を聞かされましたよ。次の飲み代も奢ってください」といったが、「悪かったな。お詫び に俺が直々にラウンジでコーヒーを淹れてきてやるよ」と冗談混じりに話を流されてしまった。
 そこでぼくは香織との約束を思い出した。遅れては悪いと思ったので、上司その話も報告し た。上司は笑って「そうか、行ってこい。大西に香織を寝取られそてしまうな」と悪い冗談を飛ばす。
 「そうと決まれば、今日はもう上がれ」とせかされ、結局二十一時ごろには仕事にきりもつかぬままぼくは職場を追い出されてしまったのだった。
 上司は「俺がマネージャーにはうまく言っとく から、今日は楽しんでこい」と悪びれもせずに言った。
 「明日の朝ちゃんと 報告しろよ、あと今日の販売促進の進捗もな」
 そう言う上司にぼくは 「かしこまりました」 と部下らしく答えたのだ。

  ぼくは居酒屋に到着すると、前回のように香織はボックス席にひとり、先に飲み始めていた。 「遅い」 すでに酔っているようで、やや崩れた喋り方だ。
 荒れた飲み方だった。
「何飲む?」
「ノンアルコールビールで」
「舐めてんの?」
「車なんすよ」
「なんでよ。車で飲みにくるやつがあるかよ。」
「家が遠いんです」
「歩いて帰れ」
 そんな調子で矢継ぎ早に会話は展開してゆく。
 前回よりもぼくは打ち解けた会話を進めることができたと感じた。
 香織は上司についての愚痴をひたすらに喋っていた。
「あーあ、なんで好きになっちゃったんだろうな」
  同情はしなかったが、その苦しみを想像することはできた。ぼくにはそんな経験はないが、自身の気持ちに正直な彼女は退くことも、進むこともできずにいるのだろう。そして上司を好きにな る気持ちもまた、少しだけ理解できるような気がした。
「ねえ、会社での河野ってどんな感じ?」
「香織さんの前での河野と変わらないですよ、もっとも、ふたりきりの時の河野のことはわかり ませんが。もちろん仕事の時はもう少しちゃんとしています」
  ぼくは上司の女癖についてはしゃべるまいときめた。そうこうするうちにいつの間にか時刻は0時を回っていた。
 ぼくは彼女の分の会計を払って店を出ようと促したが、彼女は 「もう一軒行こう、飲み足りないわ」 と言って聞かない。
 なんとかなだめすかして次回の約束をし、苦労して車に乗せた。
 寝かせないように 話を振り、都度道を尋ねて彼女の家まで案内させた。社割で買った、中古のステーションワゴ ンでぼくは黙々と山間の小道を走った。
 なかなか香織の家には到着しなかった。
「次はどっちです?」
「うん、ここ」 香織は本気か冗談か、国道沿いのへんてこなネーミン グのラブホテルを目で指し示した。
「河野が悲しみますよ」 ぼくは努めて冗談めかして言ったが、彼女はただか細い声で 「うん」 と苦しそうに言ったきり黙ってしまう。
 そのまましばらくふたりは黙ったままで気まずい時間が過ぎた。車窓からみえる。国道沿いのネオンサインが引き伸ばされたように残像だけを残して流れていった。
 そのときいっそのこと、彼女のことを引き受けてし まえば、彼女はそれ以上苦しむことはなかったのだろうか。 

 ようやく彼女の家に到着した。農家と思われる、大きな日本家屋だった。いわゆる庄屋というやつであろうか。
 玄関の前には彼女の 父親の所有であるフラッグシップモデルの白い大きなセダンが駐車してあった。
 彼女の父親が出てきはせぬかと緊張したが、さすがに家の人は皆寝てしまっているようで、誰家の明かりはすっかり消えていた。ぼくはほっと胸を撫で下ろした。
 香織は車から出がけに顔を近づけ、 「キミもなかなかいい男だったぞ」 と冗談めかして小声でいった。
 顔が近づいた際にマスカットの香りが微かに漂った。細めた目と 小ぶりで滑らかな質感のパールのピアスが記憶に残った。
 ぼくは、こんな顔もするんだなと思ったが、上司の顔が浮かんだのですぐに我に帰った。
 車を降りた香織は振り向いて最後に一言こう付け加えた。
「河野ほどじゃないけどな、河野目指して引き続き頑張ってくれたまえ」 そう言い残して香織は門の奥に消えた。
するとまた出てきて、今度は平静の声音で 「今日はありがとう、こちらはお礼です。冷やして食べてね」 と紙袋にに入ったマスカットをふた房、ぼくに手渡してくれた。彼女の家は葡萄農家だったのだ。 

つづく   

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