ある日彼女はいつものように洗車ににやってきて、ぼくを呼んだ。担当でもないぼくが名指しで呼ばれて階下へ降りていくことを、店舗の女性たちは怪訝に思っていないかと気まずい思いをした。
給湯室から同期の女の子がこちらを見て意味ありげにウィンクする。すると向こうから上司が歩いてきて、ニヤリと笑った。
おそらく上司が同期に何か吹き込んだに違いない。もちろん上司には酒を飲んで家まで送ったことしか伝えていないのだが。
ぼくが ラウンジに入り、香織の右斜め前にかしづいて挨拶をした。
要件を伺うと、香織は 「昨日はありがとう。わたし、やっぱり河野のことが好き」。そうぼくに小声で伝えてくれ た。
なんだかぼくは晴れ晴れした気分になって。香織のことを応援したくなった。
その日は特別に心を込めて、自分の手で彼女のハッチバックを丁寧に洗車した。
それから香織とは、何事もなかったように店舗で顔を合わせるほかは、はじめて会った時のように真希も含めてときどき飲みにいくようにもなっていた。
しかし、その場には上司が呼ばれることは決してなかった。それはそれで上司の方も、目的の半分が達成されて満足しているようだった。
飲みにいくのは仕事終わりのことが多かったので、たいていぼくは車で、ノンアルコールだった。
しかしざっくばらんに話ができるので二人との会食はぼくにとって快い体験だった。話題はたいていが香織の上司に対する愚痴か、真希の職場の愚痴が多かった。
そんな風にしてぼくはふたりの話を聞きながらその夏を過ごしたのだ。
仕事ではあい変わらず多忙だったが、充実した日々を過ごしていた。
ふたりと時折飲みに行く関係は途切れずに続いており、ぼくはふたりに会うごとに、少しずつ彼女たちに心を解きほぐしてもらっているような心地がしていた。
それから一ヶ月ほどが経った。
お盆を過ぎたある日の夜、ぼくがいつものように事務所で仕事をしていると、上司の携帯が鳴った。慌てて上司が事務所から退出する様子を見て、ぼくはなんとなく香織からの着信だと 勘づいたが、案の定戻ってきた上司の表情からは苛立った様子が読み取れた。
事情を察したぼくは何も聞かずにそのまま黙って仕事を続けていた。
もしかすると今日はこれから飲みに誘われるかもしれないなとぼくは思ったが、その日は香織からの連絡はなかった。
毎週のペースで洗車に来ていた香織が洗車にこなくなったのは、それからあとのことだった。
そんな出来事から一週間ほどは、彼女たちからの連絡はなかったが、忘れた頃にある日珍しく真希から連絡があった。そしてぼくは飲みに出かけることになったのだった。
真希はどこかで飲んでいるらしい。その飲み会がつまらないので抜け出してくるという。
飲んでいる場所の近くに餃子が美味い店があるそうで、そこで合流しようと真希はいった。
その場所 はいつもの香織の地元ではなく、名古屋の中心街だった。ぼくは仕事を切り上げて車で指定の店 に向かった。
23時ごろ、ぼくは名古屋の中心部の繁華街の駐車場に車を停めた。
ぼくはその頃、上司が抱えていたクレームの案件を代わりに引き継ぐことが決まり、その対応に追われていて疲れ切っていた。
翌日は公休日だったので会社には出ないことに決めた。今日は楽しく酒を飲もう。思い切っ て車は翌日まで駐車場に置いておくことにした。
平日の夜であったが、街は酔客で溢れていた。地元の街とは対照的に、燦然と輝くライトがあちこちから自分の視界に入ってくる。
その光は、疲れきったぼくにとっては少しうるさいくらいに眼を刺激した。
目当ての黄色い電光看板を発見し、歩み寄る。ガラス戸の前で一度立ち止ま り、ジャケットの皺を伸ばし、前ボタンを留めた。店のガラス戸を開けると二人がけの席に真希はいつものようなパンツスーツ姿で座っていた。
テーブルに並べら れた餃子とビール抱えるような猫背の格好で先に飲みはじめている。そこに香織の姿はなかった。
「よう、どうだい調子は」
「まあまあですよ」
「売れたかい」
「なんとか一台」
「それはめでたい、奢ってくれ」
「酔ってますね」
「あたぼうよ」
「明日は休みなんで今日は飲めるんですよ」
「それは結構。そしたら今日はとことん飲もう」
そんな調子でいつものように乾杯し、いつもの調子で仕事の愚痴を聞きながら過ごす。普段はノンアルコール なので不思議な感じがした。
深夜0時を回っても明日は休みなので時間を気にする必要もない、 その意識が僕をいつもより開放的な気持ちにしてくれた。香織がいないことが気になったけれど。
くだらない話をしながら、あっという間に時が過ぎていった。こうしてふたりで真希と話をすることは初めてだった。
二人とも文学部出身だったので、話題には事欠かなかったし、真希の学生時代の話や、 教師の仕事についてなど、さまざまなことを聞いた。
「私って、こんな見た目だけどさ、昼間はちゃんと 教師やってるのよね」
「嘘じゃないですか?」
真希は大きな目と鋭い眉を険しく細めて、ぼくを睨む。
「そんなわけないでしょ。真面目に働いているのよ、ガキども相手に」
「生徒のことをガキどもっていう先生が真面目に授業しているとは思えませんね」
「偏見よ、それ。でも、いざ教師になってみると、くだらないことが多すぎて、先生って大変だ なあとは思うよ。授業なんて仕事のほんの一部でし かないからね」
「そうなんですね」
「私ね、昔憧れていた先生がいて、それがきっかけで先生を目指そうと思ったの。私の人生に とって大きなターニングポイントだったわ。それは中学校の時だったんだけど、それまでは見た 目通りの悪ガキだったのよ、私」
「見た目通りですね」
「うるさい。でもね、その先生がしてくれた授業で本が好きになったの。それから勉強するよう になって、新しい世界が広がったように思えたわ。私が生まれた地域は荒れていて、なんと なく、私も将来は周りと同じように工場やスナックで働いたり、結婚して子供を育てたりするんだろうなと思ってた。なんていうか、わかるでしょ? 個性の違いはあっても、選択肢がほどんど ないの。未来が見えないのよ。だから、私も同じように皆んなには世界は広いよってことを見せてあげたいと思っているの。あくまで私の場合は国語というジャンルからね。今でもうまくできているかはわからないけど、ベストを尽くし たいと思っているわ。でもまあ、ひどいもんよ。港区の中学校なんでさ。まるで世紀末、北斗の拳の世界をミニチュアにしたような感じよ」
真希は慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと一言ひとこと、語った。
ぼくは真希が打ち明けてくれた話に対してお礼を込めて共感を示したいと思った。
「わかります。ぼくも似たような地域で育ったので。ぼくも、真希さんのような先生と出会っていればよかった。でも、今日真希さんのような先生がいるということを知ることができたので、 これまでの自分が報われたような気がしました」
「そうよ、私のような先生は少ないかもしれないけど、ちゃんと見ているし、応援しているの。 だから安心してあなたはこれからも頑張りなさい」
真希は照れ隠しに冗談まじりで言った。
口が大きい分、笑うとその印象も強くぼくの目に映った。
「でも、あんた も偉いわよ。そんなに若いのに良い職場で働いていて」
「たまたま配属されただけですよ。それに、結構ギリギリの毎日ですよ」
「落ち着いているってことよ、きっと人事の人も見てるんだわ。厳しい 環境の中でやっていけて るだけでもじゅうぶん偉いわ」
「見た目が若く見えないからでしょう。仕事上、若いと舐められるので」
ぼくも また、照れ隠しのつもりで冗談を言った。
話を変えようと、香織が最近洗車に来ないことを聞くと、真希は曇った顔になった。
「香織さ、心配してるんだけど、連絡が取れなくなったんだよね。元々鬱で休職していたんだけど、そんな時に河野に入れ込んじゃってさ。で、この間別れたんだって。ひどいやつだよね、 ざんざん遊んで捨てしまって。私は何度もやめとけって話もしたんだけど。でも、香織も香織で、不倫だって分かっていて別れることができなかったんだよね、自業自得と言えば、自業自得だと思う」
真希は教師らしくきっぱりとそう言い切った。
ぼくはその言葉に少し反発を覚えながらも、自分も真希と共犯だと思った。あるいは、ふたりの最も近いところでただ眺めているぼくの方がいっそう込み入って罪深いのかもしれない。 ぼくは香織の苦しそうな表情と目を細めた笑顔、そしてマスカットの香りと小ぶりなパールのピアスを思い出した。
真希は澱んだムードを振り払うかのように「さ、乾杯しよ!」と空元気でおかわりを二杯頼 む。
そうしてぼくたちは香織の話題を避けるように、再びくだらない話に興じだしたのだった。
餃子の店はラストオーダーとなった。時計の針は深夜一時に頃を指していた。
「踊りたいな」
「踊り?」
「クラブ、言ったことあるでしょ?」
「ないです」
「え、そんなことあるの?」
それならなおさらクラブ にいこうという話になり、香織がぼくを無理やり引っ張ってクラブ へ連 れていく格好になった。
夜中の繁華街を抜けて、ふたりで雑踏を踏み分ける。冷房が効いた店の中とは違い、むっとするような湿気を含んだ空気が路上には満ちている。虫の声の代わりに、自動車の排気音や酔客の笑い声、キャッチの呼び声が街の空には散らばっては消えた。
何件かのクラブ を覗いてみたものの、どこも満員か閉店時間を過ぎており入店できず、入れそうなところを探して夜の街を彷徨い歩いた。人混みが苦手な僕が遅れがちになると、真希はいつの間にかぼくの手を引いて歩き出し、ぼくはそのまま引っ張られるようにして、二人手を繋いで連れ立って歩く格好となった。
真希は明確な意思を持って、風を切るようにズンズン道を歩いていく。掴んで掌の上で眺めることができそうな質感を持った夜の空気が、まるで霧のように真希によって切り裂かれるかのように感じた。
あの時とスピードは違うが、香織を送った夜のネンライトの流れる様がぼくの脳裏によぎっ た。
真希は何か思い出したように少し笑って 「なんだかきみは弟みたいだね。私たち、きょうだいみたい」といった。ちょっと心外なような 気もしたが、存外悪くない気分だった。
なんとか潜り込めたクラブ は他のクラブ が満員だったのになぜかガラガラだった。それは平日だったからということもあるかもしれないし、そのクラブがオールジャンルで対象となる年齢層が低めだったからかもしれない。EDM 全盛の時代で、どこのクラブ でもEDM がかかっていたのだが、このクラブはどこのフロアも同じ曲の違うリミックスがかかっていた。
それほどEDM を求めてやってくる客が多かったのだろう。 「さっきのお礼」と言って真希は、チケット代を奢ってくれた。入場の仕方がわからないぼくに 気を遣ってくれたようだ。
ドリンクカウンターでテキーラを買って乾杯とともに飲み干し、それ から続けざまにロングドリンクを注文した。まきはレッドブ ルウォッカ、ぼくはジンリッキーを注文した。
真希は慣れた感じで踊った。真希の長い手脚や骨格のしっかりした体躯は、ダンスをするために作られたのではないかと感じた。
ヘアスプレーでセットされたショートカットのウェーブが硬めに揺れて、僕はその姿にしばらく見とれていた。
真希は「あなたも踊りなさい」とでもいうようにぼくに目で合図をした。どうしたら良いかわからず立ち尽くし ているぼくを見て、真希は一瞬「焦ったい」というように眉をひそめたが、すぐに笑いながらぼくの手をひき、自身の身体にぼくの身体を引き寄せた。
目の前に真希の顔があった。数センチと離れていない距離で、お互いの身体が密着していた。
微かに汗の混じったシトラスの香りがぼくの鼻腔をくすぐった。
ぼくは内心狼狽していた。しかし酔っ払っていたので、ぼくも思い切って彼女の手を取り、もう片方の手で真希の腰を抱いた。
彼女のリズムに合わせて踊ろうと試みた。しかし、生まれてこの方踊った記憶のないぼくはなんとも情けない格好で彼女のリズム を乱すのみだった。
彼女は笑って、「わたしに合わせて」と言い、ぼくの身体を一層自身の身体に引き寄せた。ぼ くはなすがままに任そうと思って、彼女の操り人形のような格好で、彼女の動きに意識を集中させた。
すると、DJが気遣ってくれたのかはわからないが、スローなテンポのバラードに曲が変わった。気恥ずかしさはあったが、目の前の真希と音楽以外のことは考えまいと意識を集中した。
そこではじめて、二人の息があったようで、なんとなく、はたから見てヘタクソなチークを 踊っているような格好になった。二人だけのダンスフロアでヘタクソなダンスを踊る自身の姿を想像し、ぼくは内心恥ずかしさでいっぱいだったが、すぐにそれもやめた。
踊れるだけ、踊ってみようと思った。
その途端、ぼくは何故だか、瞼から涙がこぼれそうになった。香織や真希と居酒屋で話してい た頃の記憶や、香織のさまざまな表情、それから、真希に手を引かれて歩いた数分前の夜の記憶が蘇った。なんだか身体とと心が溶け合って一体となるような心地がした。
ついで、音楽を触媒にして、ぼくと真希の境界も曖昧になっていくような感覚を覚えた。真希はぼくをまっすぐに見据え、ぼくもまっすぐに真希を見つめていた。
その表情が何を意味するものなのかは、ぼくにはわからなかった。いや、わからなかったと いうよりも、そんなことを考えているような余裕もなかった。
ぼくには、こうやって人と目と目を合わせて真っ直ぐに向かい合った経験がかつてあっただろうか、そう考えたのだ。
くすぐられるような快感と、幼い頃から今まで感じてきた苦しみが少しずつ溶けていくよ うな、そんな 感覚が持続していた。
おそらく踊ったのは一曲かに曲の間であったろうが、ぼくにはまるでそれが永遠に続くかとさえ思えた。
真希の揺れる髪や大きな瞳の中に映るミラーボール、耳元で煌めくピ アス。視覚に入るそのすべてが、スローモーションに見えた。
ダンスが終わると彼女は息を弾ませて「下手くそだけど上出来」と言って、堰を切ったように笑い出した。
「次までにはもっと練習しておいてね」
これがぼくが 人生で唯一経験した、ダンスにまつわる一部始終だ。あくまでダンスについての話だから、その後については筆を省くと するが、ひとつだけ付記するべきことがあるとすれば、 それからぼくは香織とも、真希とも会うことはなかったと いうことだ。
今でもぼくは、蒸し暑い夜にはとくに、あの時のダンスの記憶を思いだす。真希と再会するようなことがあったら、もういちどダンスを踊りたい。
おわり