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団地の日々(二)

団地の日々(二) 暮らし

稲妻


 高校生になった私は、バンドに熱中していた。中学三年生の夏、叔父からギターを貰った。それから、音楽に熱中した。自転車で三十分ほどかかる街中のレンタルCDショップに通うことが日課になった。高校に入るとアルバイトを始め、機材を揃えた。幼馴染とバンドを組み、地元のコンテストに出場したり、学園祭でライブをしたりした。
 それまではどちらかといえば優等生であった私も、勉強はおざなりとなった。音楽を聴き、本を読む。そんな日々が続いていた。それは、してはいけないことをするのが楽しかったのだと思う。私の行動原理は、目の前のやらなければいけないとされていることと反対のこととされていることをすることだった。そんな経験がこれまでなかった私には、それだけでも十分に楽しかった。アルバイトの給料でパソコンを買った。今まで感じていた、団地に押し込められているような感覚が、インターネットに接続することではじめて解放されたような気がした。現実世界ではどこにもいけないが、Web上でならどこへだっていける。ただし、インターネットは音楽をきくことと、性欲の処理にのみ使っていた。それ以外の使い方には、興味がなかった。
 いろいろな音楽を聴いた。パンクを中心に、音楽を聴きあさった。ロックの歴史をたどるうちに、九〇年代の音楽が最も好きになった。学校では、現行のメロコアやロキノン系と呼ばれるバンドたちの話を友人とした。学校では、一部のロック好きやバンドマンの間では、メロコア好き、ロキノン系好き、ビジュアル系好きがいた。


 「愛先輩はどんな音楽が好きなのだろう」。そんな疑問が私の心に浮かんだ。しかし、愛先輩とは、愛先輩が中学校を卒業して以来、没交渉であった。愛先輩の家は、高校進学と同時に、団地を出て隣町の新築一戸建ての住宅へ引っ越してしまったからだ。

私が覚えている最後の思い出は、私が中学二年生の文化祭の頃のことだ。文化祭では、体育祭と合唱コンクールが連日で行われるのが常だった。三学年四クラスが縦割りで四つに組み分けされるが、私は愛先輩と同じ桃組だった。組内では、文化祭の取り組みとして、体育祭での演舞を行う応援団か、各組を象徴するモニュメントを制作するデコレーションの二組に分けられる。クラスでのヒエラルキーが上のものは応援団に、下のものはデコレーションになるというイメージがあった。私はデコレーションであった。その頃に愛先輩と喋る機会があった。

 文化祭前の最後の追い込み期間であったと思う、各組は放課後に練習なり、制作なりを行うのだが、その最中に愛先輩が校内を回ってきたのだ、その際に二言か三言交わした記憶がある。どの記憶でも私は、次へつながる建設的な会話をした覚えがない。だからその際もそれほど大したことは話していないのだと思う。しかし私には、貴重な一回の会話であった。「噂」のこともあったので、私は多少ドギマギしながら受け答えをしたのではないかと思う。その頃には、「私は愛先輩が好きなのではないか」と思いはじめていた。理由はわからぬままであったが、それでいいのではないかとも思った。それ以来、愛先輩とは話していない。

 ひょんなことから、愛先輩と再会した。再会、といってもコンビニで立ち話をしたのみである。私は煙草を買いに行こうとコンビニへ向かった。夕方からはアルバイトの予定があり、無茶苦茶な服装だった。コンビニに自転車を止めると、声をかけられた。愛先輩だった。

 愛先輩は背が高く、細身で、髪はミディアム、染めてはおらず黒い髪をしていた。同世代の年齢よりは子供っぽい生地のラフな服装をしていて、愛先輩も家からちょっと出てきたという感じだった。

「今、何してるん」

「ちょっと買い物に」

その程度の会話だった。愛先輩は私の近況を聞いた。私はそれに答えた。私は煙草を買いに来たとは言えなかった。小学校の同じ通学団の頃から彼女が班長であり、私にとってのお姉さんのような存在だった。彼女は真面目で、そんなことを言ったら軽蔑されるかもしれない。

 そんな様子で、結局いつものようにそれほど会話を交わすことなく、別れた。

 その後だったと思うが、私は母から、愛先輩が心を病んで不登校になったと聞いた。

 それから私は愛先輩に会うことはなかった。

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