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産業道路

音楽

年齢も30に近くなり、増え続ける体重と肝臓機能の低下に悩まされるようになった。
酒を飲んだ翌日に二日酔いを持ち越す日々も多くなり、次第に酒量も減っていく。
周りの人はまだまだ若いとはいうが、私は10代の終わりから20代の初めにかけて、人の3倍は無茶苦茶な生活をしていた自負もある。
恥ずかしながら10歳は人よりも身体的に老け込んでいるようにも感じている。

そのため、精神的に大人になれているかという問題は棚にあげたとしても、人生のエネルギーの電池残量は折り返し地点に到達したように思う。
疾風のように過ぎ去った青春時代。
どれだけ辛いことがあっても走り抜けようと念じてやってきたものの、ゴール地点に対して大きな遠回りをしていたようで、失ったものは大きく、また、いまだに心の整理がつかないことも多い。

新型感染症の流行があって社会生活に大きな制約が課せられる昨今の状況の中で、ようやく苦しい青春時代に一区切りをつけられるような気がして、まとめられなかった記憶を文章にまとめようと試みている。
しかし約10年の歳月の中で擦り切れてしまい、曖昧なことも多い。

自分にとって大切な思い出たちばかりであったはずだが、その記憶はどうも曖昧で、まるで漫画に出てくるネズミにかじられたチーズのような塩梅である。
そんな年月の流れによる体調の変化や記憶の喪失に焦りを感じる日々であるが、なんとか再構築を試みたい。

「飲みに行こうや」

今でも付き合いのある親友からの呼びかけで家を出たのが21時ごろだったと思う。

その日の前日、私は人生で最も印象的な一日を過ごし、自宅で療養していた。
療養、というのは精神を病んでいたからで、その一日前に私はオーバードーズし、廃人になっていたのだ。

そうして入社後初めての有給休暇を取った私は、午前に精神科へ行き、午後は寝て過ごした。切実に欲していた休みも今はただつまらなく、むしろ死ぬことができずに地獄が続いていることがただただ苦しかった。

その矢先の親友からの連絡であった。
親友は話を聞きつけ、私を誘ってくれたのだ。
何事もなかったように。

親友とは大学で同じ学部学科だった。いつから仲良くなったのかは覚えていないが、喫煙所で顔を合わせるようになり、それぞれがバンドを組んでいたこともあって、仲良くなったのだと思う。
2人とも講義にはほとんど出ておらず、もっぱら大学の喫煙所で会っている中であった。

そういったところも似た者同士であった私たちは、大学在学中はお互いにスケジュールを合わせて何かする、ということは少なかったけれども、お互いに自身のドッペルゲンガーのような感覚で一目置いていたのではないか。

そんな経緯で大学卒業後もやり取りを続けていた私と親友であったが、私が就職してからはほとんど会う時間もなくやや疎遠になっていた。
時折、ゼミの飲み会があったが、私は仕事を終えて車で駆けつけ、最後の会計の前後で顔だけ出して帰るということを繰り返していた。

そんな経緯もあって、彼と喋るのは久しぶりであった。
あれは確か夏だったと思う。
蒸し暑く、アスファルトからは夜だというのにムッとするような熱気がたち、街灯には蚊がたかっていた。
街灯が照らすオレンジ色の光の下に彼の軽トラックが止まる。
彼は私の家まで迎えに来てくれた。昔のように勝手に助手席を開けて烟草臭い車内に乗り込んだ。

オーバードーズしたことが照れ臭く、どう挨拶しようか迷っていると、いつものように烟草を差し出してくれた。
彼はそういった気前のいいところがある。
ラークのロングだったと思う。甘く苦い烟草で、私は今でもその味を思い出せる。

何も言わずにいつもと変わらず接してくれた彼には感謝で泣きそうであったが、とうの昔に涙も枯れ果てていた私は、ただフィルターを噛むことしかできなかった。

改造してウーハーの取り付けられた車内からは彼のバンドの曲が流れていた。

「これ、新曲なんだ」

「良いじゃん」

彼の歌はまっすぐで、力強い。
私にはないもので、常々羨ましく思っていた。
私はどちらかといえば流されやすいタイプで八方美人。
他人の評価が気になって仕方がない。オーバードーズの一因にはそんな私の生き方もあった。

私はしばらく彼の曲を聴いていた。
景色は産業道路と呼ばれる、都市部から郊外へと向かう、自動車専用道路へと変わる。
左手にはコンビナート、右手には黒々とした山々だ。

彼は他愛ない話を色々としてくれた。どんな話をしていたのかは覚えていないが、少しずつ冷え切って硬直した心が温められて動き出すのを感じた。

 「いつものやつ行くかー」

そう言って彼はFMトランスミッターにつなげた携帯を操作した。聴き慣れたリフが耳にリフレインする。フラワーカンパニーズの「深夜高速」という曲だ。

私たちはいつもこの曲を聴いて、歌ってきた。
それは、「生きていて、良かった」というサビの歌詞が繰り返される。
私はこの時ほど、「生きていて、良かった」と思ったことはそれ以降一度もない。

時速100キロで私と彼は名古屋の街を目指してただひたすら歌い続けていた。
そんな夜だった。

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