東京都内のとある公園でパソコンを叩いている。
やっていることは10年前と何ら変わらない。
10年前は愛知県の公園で鉛筆でノートに何やかやと書きつけていたのだ。
本来の職である営業マンとして過ごすかたわらで、時間を盗みながらライター/編集者としてニッチな業界で謙遜して売文と言うにもおこがましい、気取り屋のワナビーのひとりとなった私は、仕事帰りに公園で作業をすることが日常となっていた。
なぜなら、妻はそのことを快く思っていなかったからだ。
と言うよりも、気取り屋のワナビーである私に快い感情を抱いていなかったのだ。
今思えばそれは当然のことだ。
その光景は街ゆく人には異様に映るに違いない。
だから、人手の少ない寂れた公園を狙った。
今は駅と駅の間の住宅街の一角にある公園が私のホームグラウンドとなっている。
人に見られては、不信がられることは疑いがない。
だから、人がくればパソコンを閉まって、酒を飲んでいるふりをした。
いや、ふりをしているのではなく、酒は本気で飲んでいた。
以前から、酒を飲みながら文章を書くことが常態化していた。
私は、酒と文という外界から閉ざされた自分だけの世界に生きていたのだ。
公園には感染症の流行による非常事態宣言にも関わらず、行く当てをなくしたカップルや、自宅でのトレーニングに限界を感じて外に出てきたボクサーなど、日替わりで多様な人種が訪れる。
そしてその人々は一様に、お互いのことを干渉しない。
非常事態のこの時期にあっては、外に出ている人はどこかハズレものの匂いがする。
実は公園で飲酒しながら一人パソコンで作業をすることには多少引目も感じていた私であったが、それも少し、いやかなり薄らいだ。
だからより一層自分だけの世界、いや、というよりは公園の中の自分という箱庭に中毒していった。
非常事態宣言のもとにあって、公園でたむろする私たちは一種の共犯者であり、互いを黙殺し、詮索しないというルールの元において、意識下で連帯していた。
そう私は信じていた。
公園にはいつものボクサーがhiphopを携帯で鳴らしながらトレーニングに励んでいる。
治安が良いとされ、閑静な住宅街と認識されている都内のこの街であるが、hiphopが流れる公園というのはおおよそ瀟洒な街には相応しくない。
だが、私はかつて愛知県で似たような風景を過去に目にしていて、どこかこの公園に対して懐かしい想いを抱いていた。
それは、同じく10年前、私が日々することもなくふらついていた街、今池という名古屋の街に、この非常事態宣言下の都内のこの公園の中にある私と公園との関係が類似していたからであろう。
私は何度となく今池という街について描写を試みてきたが、それはいつも納得のいかない出来だった。
今もなお、今池という街を書きたいと思って筆を手に取るのだが、時を経るとともに、当日記憶は薄れてきて、私にとっての理想郷の表出にほかならない、現実とはおよそかけ離れたものとなってしまうのだった。
もう一度今池を書こう。
そんな思いで、同じ地続きの路上で筆を取った。
果たして私に描けるだろうか。
記憶が古びたレコードのように擦り切れてしまう前に、書けるだけ書いてみよう。
深呼吸して目を閉じる。
暗闇に浮かび上がるのはまず、地下鉄の出口から地上にでると聳え立っている、交差点の角地を占める巨大な郵便局だ。
今池は私にとってこのイメージが大きい。
名古屋から長久手市まで伸びる、車線幅の大きな自動車通りが地域の真ん中を通る。
その今池交差点から伸びる南北東西の道路で区切った南側が盛場だ。盛場、といっても話に聞く昔のような精彩はない。
私が今池の町の地面の上を這い回っていたのは2010年代のことだ。
住吉、錦といった煌びやかさとは縁遠い、滲んだ水彩絵の具で描いたような貪婪さが今池にはある。
その中でも私はとりわけ、南東のエリアをうろついていた。
なぜかというと私が学生時代に最も足を運んだライブハウス、今池HUCK FINNがそこにあったからだ。
私は当時ハードコアパンクバンドにドラムとして所属していた。
そこで定期的に今池ハックフィンでのライブに出演する機会があったために、今池という街を何度も訪れる機会があった。
機会があったというよりも、ライブがあれば昼からリハーサルがあり、打ち上げは朝方まで続くため、朝から晩まで今池にいた。
その経験から、私は今池という街に最も愛着を覚えるに至ったのだと思う。
と、いっても、私は今池の全てを知りはしない。
私が関わっていたのは一部でしかなく、ライブハウスを起点にしたカルチャーをほんの少し味わった、というよりもその匂いを嗅いだに過ぎない。
何故ならば私は、当時全く現金をもっていなかったからだ。
場末のイメージがある、今池で飲む金さえも持っていなかった。
当時の私は、実家暮らしの大学生活。
アルバイトをしていたものの月の収入は5万前後でしかなかった。
残りは何に使っていたのか覚えていない。
月々の携帯代に1万円を使い、残りは酒と煙草に消えていたようだ。今池ハックフィンに出演するようになった頃、ようやくチケットノルマ制から脱し、チケット売上に応じたバックチャージを貰えるようになった私たち(といってもほとんどなく、出たチャージはバンドとして貯金していた)には、ほとんど打ち上げ代以外はかからなかったはずだが、それでもお金がなかった。
私などは甚だ不勉強で恐縮しているのだが、レコードを買う金もなかった。
おそらく、飲み代にほとんど消えていたのだろう。
恥ずかしい限りだ。
いずれにせよ、毎月5万前後の金を自由に使えたというのは今よりもかなり贅沢な暮らしで、それもまた青春の特権といえるのかもしれない。
そんな自堕落・放蕩三昧の生活だった私だが、それなりにコンプレックスを抱えていた。
それは、自分の周りの人間よりも自分の置かれた環境が金銭的にハードだということに起因していた。
私は団地に生まれ育ち、父がパチンコで借金を抱えた共働きの過程で育った。父は土方、母親は毎日パートへ出て毎日家には誰もいない。弟はグレて何をしているか分からない。
その中で私は比較的成績が良く(といっても国公立の大学へは行けなかった)、学費の安い地元の有力私立へ入学するに至った。
それは、親の期待はそれほどなかったにせよ、勝手に世間体を勘ぐって(世間体など気にしないが、じぶんがなぜかきにしていた)のことだった。
実際にはいつでも優等生にはなりきれず好き勝手生きることになるのだが、当時は切実に周りの経済的家庭環境に対してコンプレックスを抱いていたのだ。
それは大学に入っても、バンドをやっても同じことで、「結局やつらがやれるのは金があるからだ」とひとりごちていた。
CDを買えるのも金があるから。
勉強が出来るのも金があるから。自分は他の人間ご本当に好きなことをやれるのが金があるからだと決めつけていた。
勿論、他の人間にはその人なりの環境なり、理由があって、それに打ち込む決断をしているはずで、それを誰も笑うことはできない。
しかし私は当時それを笑っていたように思っているし、そんな人間には、先行きがないようにも感じている。
話が逸れたが、私はとにかく金がなかった。
煙草はエコーかゴールデンバット、酒は第3のビールか安ワイン、ポケットウィスキー、パックの日本酒、そういった具合である。
酔えればなんでもよかった。その心持ちが今に至るまでの、自分にとっての災厄の根源となっている。
当然、そんな暮らしぶりをしているので、今池に行ったとて居酒屋で飲む金などない。私が往復していたのは、ライブハウス今池ハックフィンと、打ち上げ会場であるやぶ屋という安居酒屋、ダイエーとコンビニエンスストアの間くらいのものである。
今池商店街から少し離れ、ダイエーを通りすぎて、右へ曲がる。
すると右手に長楽という古い宿屋がある。
その横の建物の地下がライブハウス、今池HUCK FINNだ。
ちなみに長楽という宿屋に私は泊まったことはないのだが、ツアーバンドはこのホテルに泊まることが常だったそうだ。
長楽は非常に古いホテルというよりは宿屋といった方がイメージしやすいような、非常に古びたの宿泊施設だった。
そのホテルには幽霊が出るという噂があり、実際に何人ものそこに泊まったバンドマンが幽霊を見ていたという。
他地方のバンドマンにとっては名古屋という地域は一種の肝試し的なアミューズメント的な側面のある土地だった。
ツアーバンドのお決まりのコースとしては、今池HUCK FINNでライブをし、やぶ屋という居酒屋で暴れまわり、足元もおぼつかない状態で大丸という伝説的ラーメン屋でラーメンを食い、長楽で二日酔いの朝を迎えるというコースがお決まりであったという。
それぞれについては章立てて後述するが、そんな一部の人(ではあるが、そのカルチャーを享受する人間にとっては共通項ともいえる)しか経験しない今池を私は儀礼として通過したに過ぎない。
しかし当時は、そんなバンドマンだけが体験しうる、共通の話題に混じることができたことに悦に入っていたし、今でも恥ずかしく、また懐かしく思うのだ。
前置きが長くなってしまったが、そんな少数部族の奇異な昔語として、この話は聞いてもらいたい。
そんな時代があったのだと。
今池HUCK FINN。
名古屋市営地下鉄桜通線・今池駅地上出口を出て、そびえ立つパチンコ店「キング観光」の巨大なビルが作り出す影の下を抜け、横道を進む。すると左手には「ダイエー」今池店が見えてくる、その角を右手に曲がれば視野が開け、右手の一角にはライブハウス今池HUCK FINNが入る石井ビルがポツンと見える。
腰の位置までの小さな看板が目印だ。
その看板の奥には地下につながる無機質な階段があるのみ。
ビルの1フロアでエレベーターを利用してたどり着くライブハウスが多い中、旧来のライブハウスのイメージ通りの場所で、そういった場所に恋焦がれた私にとっては感慨深い。
薄暗い階段を降りていくと、壁には1981年の開店以来出演してきた錚々たるバンドたちのスタッフパスが乱雑に貼り付けられている。
私は憧れのバンドたちのスタッフパスとともに、この今池HUCK FINNの壁に自分のバンドのスタッフパス(ライブハウスの出演者やスタッフと一般のお客さんを区別するために服に貼っておくシール)を貼ることが夢であった。
今ではドームツアーを行う規模のバンドや、現役で活躍するバンド、過去の伝説のバンドなど、多くのバンドがこのライブハウスに憧れていた。その夢の残滓が今でもこのライブハウスの壁には残っている。地下に降り立ち、後ろを振り向けば階段の蹴上部分にもスタッフパスは所狭しと貼られている。
正面を向けば受付があり、そこでお金を支払い、ドリンクチケットとフライヤーを受け取り、右手の黒く重たい防音のドアを開け、フロアに入場できる仕組みだ。
フロアの床は汗と酒、モッシュの摩擦によってペンキが所々はげている。それが不思議な風合いとなり、ライトに照らされてまるで象牙のような光をはなつ。
これは私のハックフィンへの憧れが見せた錯覚なのかもしれない。
HUCK FINNのキャパは200人ほどだったかと思う。
小さくはないがとりわけ大きいというほどでもない。
しかし、このライブハウスで行われる週末のイベントは満員となる。大御所やツアーバンド、ローカルの注目イベントが日々開催されており、またパンク系のイベントが多いこともあって、フロアはいつでも人の熱気で蒸し暑く、すし詰めの状態だ。
バンドとバンドの転換の時間には、ドリンクカウンターにたどり着くことが難しい。
ステージの両脇には他のライブハウスではなかなか見ない、少し古めのスピーカーとウーハーがむき出しのコンクリートの土台にくくりつけられている。
全体的に黒い色調のステージの中で、そのイメージは無骨な印象を受ける。
長年丁寧に手入れされて使用されてきた機材たちからは老舗の歴史の重厚さがある。
当時の私はオープニングアクトで出演させてもらうことが多かった。
リハーサルは逆順で行われることが多いため、オープンの直前だ。
しかし、先輩バンドやツアーバンド等大御所も多く、入り時間にはできるだけ一番乗りを目指していく。
といっても、他のバンドと打ち解けることもできない人見知りの私たちは、挨拶を終えると逃げるようにライブハウスを抜け出して自身のバンドリハ順までダイエーやコンビニ、路上で時間を潰した。
毎度ガチガチに緊張する私はリハ順までの間も酒を飲んでいた。
基本的には金もないので紙パックの日本酒、安ワイン、安ウィスキー、発泡酒などばかり。
できればビールが飲みたいが、夜は長い。
おおよそそれが13時から15時までの時間帯の出来事である。
打ち上げに出るのであれば、私たちは名古屋市街からきているため、必然的に朝帰りとなる。
それまでの時間は飲み続けとなる。
リハーサルを終えるライブハウス、出演バンドの顔合わせがあり、いよいよオープンだ。
フロアにはBGMがかかり、お客さんが入ってくる。
スタートまでの時間、顔見知りが来てくれれば少し緊張も紛れるが、曲順や入り方などのことを考えるとあまり人と話す気にもなれない。直前になるとそわそわして、何度も頭の中でリハーサルを繰り返す。
いよいよ、スタート。
袖のスタッフから「よろしくお願いします」と声がかかる。私たちはSE(出囃子)を用いなかったので、BGMのボリュームが下がるのが合図だ。
するとフロアの人たちも察してこちらに注目する。
照明が眩しいので表情まではよく見えないのだが、緊張の一瞬である。自身の額から汗がつたうのがわかる。
カウント。
音を出した瞬間からは無我夢中、ライブを終えるまでは記憶も飛び飛びである。
やぶ屋。
ライブを終えると誰しもが息も絶え絶え。
楽屋は狭く煮餅置き場として機能しているので、ステージの片付けも早々に地上へ出る。そこで初めてアスファルトの上に寝転がる。
息を整えてタバコを一服、この日一番の味だ。
誰もがライブの余韻を感じていたい、そう思っているので、反省会は後日。
本当はそのままライブハウスに戻ってきてくれた人に挨拶したりするべきなのだが、私たちは青春真っ盛りであった。
それぞれが個人的な気持ちを味わいたいというわがままを心の片隅にとっておき、ライブハウスには戻らずにトボトボとコンビニへ向かう。
ボツボツと会話を交わす。
しかしライブの余韻で上の空の私たちは噛み合わない会話にも気付かないまま、はたから見たら阿呆同士かと思われるような足取り。
お金がないのでそこで飲み物など購入しライブハウスに戻る前に胃袋に押し込んでいく。
打ち上げに備えての意味もある。
ライブハウスへ戻りながら飲んだ発泡酒の味は今でも忘れられない。
ライブが終わるときてくれて人に挨拶をし、他のバンドに挨拶をして回る。そこでの第一声は「打ち上げ行く?」。
「はい!」と威勢のいい声で答えると、はじめて憧れのバンドの人と会話らしい会話ができたことに満足してしまうのだった。
打ち上げ会場は今池HUCK FINNの場合は味仙かやぶ屋。
味仙は名古屋で有名な老舗台湾料理屋でその本店が今池にある。HUCK FINNからは少し遠いことと、大人数では入れないこともあり、大抵はやぶ屋で打ち上げを行う。
こちらも本店。
やぶ屋はHUCK FINNからも近く。
二階に座敷を貸し切ることができ、飲み放題食べ放題の金額も当時確か2000円ほどで、かなり安かった。
24時間営業で時間を気にせず飲めることと、酔って暴れるバンドマンがいても理解があった。
というのも、安居酒屋で客層も荒々しかったことと、そもそも働いている人がバンドマンばかりだったからだ。
店員もカラフルな髪色で奇抜な髪型、ピアスやタトゥーが入っており、お互いに気楽だった。
大座敷の打ち上げでは、中盤以降の記憶が毎回あまりない。
幸い、他のシーンに比べて縦社会という感じでもなく、飲まされるということもなく、穏やかな打ち上げが多かった。
だが、ペースは皆早い。
ほとんど一気飲みのような速さでビールを消費していく。
もっとも印象に残っているのは、ポップパンク系のバンドが集まるイベントでの打ち上げ。
そこでは乾杯の際にRancidの「Ruby So Ho」という曲を歌った。
ビールとルビィをかけたダジャレなのだが、バンドマンの共通言語を体験できたことが単純に嬉しかった。
それくらいの出来事で、取り立てて打ち上げでのエピソードもないことが恐縮だが、打ち上げの際に絶対出る話題があった。
それは大丸という伝説のラーメン屋の話題である。
大丸。
打ち上げ終盤になると必ず誰かが「大丸」の話題を口にした。
それは、夜中になると食べたくなるという趣旨の発言であった。
地元のバンドマンにとってはまさに聖地のような存在であり、今池HUCK FINN、やぶ屋、大丸というコースがお決まりであった。
名古屋が初めてのツアーバンドには、都市伝説のような語り口で、誰かが語って聞かせた。
「名古屋・今池には真夜中に不定期で開店する伝説のラーメン屋がある。
夜中になるとその周辺に行列があるのですぐに見つけることができる。
開店時間は決まっておらず、店主のである爺さんのその日のコンディション次第である。
深夜2時に開店することもあれば、朝の4時まで待たされた挙句、隣の松屋で食べてくれと追い返されることもある。
しかし、人々は並ぶことを辞めない。
店が開かないことがあっても、人々は日夜路上で粛々と開店を待ち続けるのだ。
それほど美味いラーメンなのかといえば、決してそうではない。
むしろ、まずい。
そもそもそれがラーメンと呼べる代物なのかどうかも怪しい。
しかし、そのラーメンには不思議な魔力があるのだ。
そんな都市伝説まがいの怪しい話に興味を持ったバンドマン達は、今日も大丸の暖簾をくぐる。
いや、くぐることができればラッキーで、くぐれないこともある。
その体験が、日本各地のルーキーバンドマン達に語り継がれていく。地方や東京のバンドマン達はすでにその話を先輩から聞かされている者もいる。
「名古屋に大丸あり」と。
私も兼ねてから打ち上げで大丸の話は何度も聞かされていた。
初めて大丸へ行ったのは新栄でのライブが終わり、中打ちを終えて、ライブハウスのスタッフとだった。
「大丸が食べたい」。
ライブハウスのPAがそう言いだした。
大丸にまだ行ったことがなかった私は、スタッフに連れられて、歩いて大丸へ向かった。
深夜2時30分ほどであったろうか、3時頃に到着した私が目にしたのは、深夜とは思えないほどのラーメンを待つ人たちの行列だった。
あたりは真っ暗だが、大丸と思しきお店だけが煌々と明るい。
漏れでた明かり行列を照らしていた。
私たちも行列に加わり、粛々と列の前進を待った。
行列に加わった人は近隣からの苦情を配慮して小声で話す。不思議な緊張感が列を支配していた。
苦情が入れば、あるいは店主である大橋さんから叱られれば列は解散、閉店となってしまう。
大丸にたどり着くまでの道のりは、近いようで遠い。
それから1時間ほどまっただろうか、ようやく店主の大橋さんから促され、入店した。6畳ほどの店内。
カウンターの中に店主、それを取り囲むように6席あり、互いに饅頭のようになりながら席に着く。
一番奥に座った人が他の客に水を配り、適宜店主の指示を受けて背中の冷蔵庫から材料を取り出す役回りとなる。
店内にはスタッフパスやサインなど、私でも知っている様々な有名人の名前が並んでいる。
カウンター奥には麺を茹でる寸胴やザル、肉を煮る鍋があるが、それは覗かないほうがいい。
理由は聞かないでほしい。
店主から声がかかりおしぼりば手渡される。
客はおしぼりを使ってラーメンの丼を下ろす。
丼にはもやしが山盛りで乗せられており、それ以外には何も見えないほどだ。
まずはこのもやしを処理することがステップ1、卓上の調味料をかけて食べる。通は中濃ソースをかけるという話もあるが、一滴でもスープにそれが沁みると台無しなってしまうという話を聞き、それはできなかった。
私は無難に一味と醤油でもやしを崩しにかかった。
すると、奥の席の男性が店主に断り、冷蔵庫から焼きそばの粉末ソースを取り出した。
その袋を封切り、おもむろにもやしにかけて食べ始めるのを見た。
そんな食べ方もあるのかと驚きつつ、私は外で待つ人のプレッシャーを感じつつ、必死にラーメンを食べる。
食べるというよりもかき分けると行った心持ちで、その圧倒的な量に初めての大丸の私にとっては、味わうことは二の次だった。
体験すると行った感じである。
ようやくもやしの量を減らすことができると続いて、練り物と謎の肉が顔を出す。
練り物は練り物だけに、うまい。まずいわけがない。
しかし肉はしぐれ煮のような甘辛い味付け、不思議だ。スープは昆布だしに醤油の味付け。
しかしもやしに続いて麺の量がありえないくらい多い。
おそらく2玉か3玉分はある。
もはや苦行である。
泥酔した後、この量のラーメンを胃に流し込むことは危険である。
しかし、誰しもがそれを望んでいる。
まるで麻薬である。私もその日以降、酔っ払うと大丸が食べたくなるのだった。
なんとかラーメンを食べ進め、もう少しで完食、といった塩梅までたどり着いた時、見計らったかのように店主に声をかけられた。
「お客さん、学生さんかね」
頷く私に店主は、「うどんもまだまだあるから食べなさい」と丼にうどんの麺を投入する。
私は青ざめながら麺を啜る作業に戻らざるをえなくなった。
大丸ではラーメン(焼きそば)、うどん、きしめんの麺から麺をチョイスすることができる。
学生かという店主の問いかけに答えてしまうと、無条件で麺を追加されてしまう。
それが過去多くの貧乏学生に与えてきた店主の優しさである。
麺は積極的にお代わりする人は多くないので、すでにお代わりのために茹でられた麺を平らげるまで帰してもらえないこともある。
ようやくラーメンを食べ終えた私は、息も絶え絶え、お会計をしようと立ち上がった。
金額は550円。
大丸はタクシーの初乗り運賃に合わせて提供してきた。会計をすませるとオマケのブラックサンダーがもらえる。
ブラックサンダーはその昔はトーマスのガムだったそうだ。
店を出ると4時半過ぎだろうか、すでに空が白み始めていた。
私はブラックサンダーの封を切り、一口かじった。ブラックサンダーはめちゃくちゃうまかった。
それから数年後、大丸は閉店してしまったが、ライブハウスで大丸の追悼イベントが行われたり、大丸を愛する有志によってコンピレーションアルバムが作成されるなど、いかに大丸が愛されていたかを証明するかのような騒ぎであった。
大丸を店ごと再現し、提供する企画をライブハウスで行う猛者さえ現れた。
そこからさらに数年経った今では、ネット上に伝説のラーメン屋としていくつかの記事が残るのみである。
近年、大丸をもう一度食べたいという人の要望に応え、やぶ屋で大丸ラーメンという名前で注文できるようになったそうだ。
しかしその味はきっと大丸よりははるかに美味しいに違いない。